ALSと共に
生き方さまざま
生き甲斐としてのピアサポート〜真実(まこと)の告知を経て〜
1.私のこと
私は、人生もこれからという矢先の42歳でALSに侵されました。喋れない、口から食べることが出来ない、身動きも出来ない、という数々の障害とともに、呼吸器を着けて生き続ける勇気と、これがわが寿命と死を受け入れる勇気。これは年齢や性格に基づく人生に対する価値観、あるいはその人固有の療養環境で違ってくると思います。従ってどちらが正しいと言うことではありませんが、私は呼吸器を着け、生き続けることを選びました。
本来私は、心情的には呼吸器を選択したくとも、療養環境的には無理な可能性がありました。それでも呼吸器装着により、結果として新たなる命を得た今、私は清々しく生きています。そして、ALS発症者として生きる為の目標を持ちました。それはピアサポート、すなわちALS発症者によるALS等発症者へのサポートです。
2.告知直後(ありきたりの告知を受けて)
振り返ってみると、最初の病院でALSの告知を受けた直後の私は、「絶望」に支配され死を望む気持ちしかありませんでした。ベッドの上で目をつむり考える事は“寝たきりになって生きる意味がない”、“眠っている間に死にたい”そんな事ばかりでした。やがてその当時の私は“この先誰と会っても意味がない”という感情に支配され、一時社会とのつながりを殆ど断ちました。
そんな告知直後の私の心情を表した2000年8月末のレポートがありますので、抜粋してご紹介します。
「絶望的な」そんな形容詞を使う場面に、人は長い人生の中で幾度か出会うものですが、「絶望」そのものに出会う事は、稀なものです。運命の2000年5月に、私は生まれて初めて本当の「絶望」に直面しました。ALSの告知です。その時私は、病院の11階にある病室のベッドに正座をしながら、告知を受けていました。「平均3年から4年で…絶命」「四肢麻痺…」「呼吸停止…」、にわかには信じがたい予測を並べ立てる主任医師や、うつむいたままの若い2人の担当研修医を前にし、何気なく見た窓越しの景色は現実味がなく、こらえ切れず滲み出した涙のためか、まるで輪郭の曖昧な出来損ないの絵のようでした。表面上は平静を装いながらも、「いやだ!そんなことあるはずがない!」私は心の中で狂わんばかりの絶叫を発していました。
それでも続く告知は容赦がなく、みるみる意識は絶望の淵に追いやられて行きました。あの時、気の弱い私が精神錯乱を起こさなかったのが、今思えば不思議な程です。死刑宣告とも言える告知が終った後、担当医の内のお一人でこの4月研修医になったばかりという若い先生が、告知を受けた直後の私を気遣い、そっと様子を見に来て下さいました。そしてこう話されました「国立T病院のI先生の元へいらしてみて下さい。色んな生き様を知って頂けます…。どうか結論を急がないで下さい。」
そうです、その時の私の心の内には「絶望」すなわち死を望む気持ちしかありませんでした。ベッドの上で考える事は“楽に死にたい”“眠っているうちに死にたい”そんな事ばかりなのです。その事に彼は気がついていたのでした。そして、退院後も私は「絶望」に苛まれ、のたうちまわりました。この時点での病状の進行は返す返すも残念ですが、顕著なものがありました。まさしく死を望む者にふさわしく…。
「絶望」という目に見えない凶器は、「人生に対する諦め」という縫い合わせ切れない傷を心深くにえぐりつけたうえ、あらゆる心の支えをなぎ倒し、確実に病気の進行を早めたのです。通院先の外来日、私は耐え切れない焦燥感に背中を押され、当時の主治医の先生に、I医師への紹介状をお願いしました。そして実は、心の底では死を恐れる私は、「このままではいけない。この先の生き方を考えなくては…。」とすがる気持ちでI医師の元へと向かったのでした。
3.真実(まこと)の告知とは、継続したもの
実は、最初の病院での告知は、文字で例えるなら“告知”の一(ひと)文字目の“告”まで、すなわち病名・病状について告げるだけの診療であったのです。つまり“発病後、徐々に筋肉が萎え、全身が麻痺して、平均3年ぐらいのちに呼吸が出来なくなります”などとありきたりに症状を“告”げるだけでは、理解・受容の為の知識は発展せず、却って現実を直視出来ない感情になり、一人絶望の渦に飲み込まれて行くだけなのです。私の場合がそうでした。
大切なのは、同じく文字に例えるなら、“告知”の二(ふた)文字目、“知”の部分にあって、ALSを発症した人が自分の病気について正確に知る事、その為には医師が充分に時間をかけ、各段階に於いて突き詰めた対話により知らしめる事、それこそが“知”の後に行われるさらなるメンタルケアを通して、ALSという病気に正面から対峙するための基盤作りに通じて行くのです。だからこの部分こそ、その後の発症者の動向を、大きく左右する要です。I医師はこれを哲学として持っていられました。
そしてその当時の私は、引きこもりの人生を送りながらも診療先をT病院と変え、長い時間はかかりましたが、I医師の指導すなわち『真実(まこと)の告知』の元、徐々に変化をきたしたのでした。I医師と出会うこと無く、その真実の告知を受ける機を逸していたならば、私はとっくに朽ち果てていただろうと確信しています。
4.「ピアサポート」の起点と私にとっての意味
そんな私にピアサポートという、生き甲斐を掴むチャンスが巡って来ました。2002年5月、胃瘻手術の為に入院した私に、I医師から「新しくALSの告知を受けた方に向け、何かアドバイスになる事を書き、それをオリエンテーションしてみたらどうか。」との提案を頂いたのが切っ掛けでした。
実はその当時、ある複数の理由により介護破綻をむかえた私の家に、既に私の帰る所はありませんでした。つまり私は、その時の入院3ヶ月以内に、今後の静養先が見つからなければ、人工呼吸器装着前でもあり、自らの人生に結論を見出す〜すなわち「人生をまっとうする〜必要があったのです。
そんな折の主治医からの“生きる気力を持ちながらも”“現行の社会福祉制度の元では、私の暗たんたる人生に”“その先光明をもたらして下さった”、傍から見れば私にとって「幸運」とも言える提案でした。
5.なぜ生き甲斐と成り得たか
勿論その時は、「ピアサポート」という言葉さえ知りませんでした。でもそれを実践することが他のALS発症者の方に役立ち、ひいては自分が必要とされることが、社会に私の存在を許される最後の砦ではないかと感じました。正に生き続けて行く為にはギリギリのタイミングで、「提案の受諾」という選択をきっかけとし、後は『社会に必要とされる限りは、命与えられる』との信念の元、ただ一直線に「ピアサポート」に取り組むだけでした。
私のような平凡な人間にとって、生き甲斐とは生まれ変わる瞬間とも思える時、すなわち「追い込まれた先にあるもの」かもしれません。そしてその機会は束の間で、周りの方達に手を差し伸べてもらわないと、掴みきれないものです。
しかしそんなことも今思えばこそで、その時には資料作りなど主治医の課題に対する要求も矢継早に、理屈をコネル余裕などなく「生き抜く為」に、主治医の敷いたレールの上を、後は一目散で走り抜けたのでした。
そしてその活動の上で、多くの新しいALS発症者の方に接して、改めて判ったことがあります。それは、告知を受けた直後のALS発症者の方は、殆ど例外なく以前の私のような絶望の感情に囚われているということです。あるいは、現実逃避の感情に支配されているのです。
6.真実の告知の大切さ〜生き甲斐へと導かれてこそ〜
ALSと正面から対峙すること、それは並大抵のことではありません。たった一度のありきたりの告知で、どこをどれほど理解できるのでしょう。形式だけの告知で患者が絶望の淵にあること、それは当り前なのです。でも、そのままでは先にあるのは、望む望まぬに関わらず、呼吸困難からくる「死」のみです。だから呼吸器を着けてでも「生き抜く」為には、適切なメンタルケアを通して生き甲斐を持つことが必要なのです。
私は、人は追い込まれ追い込まれ、さらに追い込まれたその先からも、這いつくばって、のたうちまわりこそすれ、生還が可能であることを実体験として学ばせて頂きました。
ただそれには、導いてくれる方の大いなる力と、支えて下さる方達の絶え間ない協力とがあり、それを必要と致しました。あくまでもその結果として、今私はピアサポートを生き甲斐として、ALS発症者の身ならではの人生を謳歌させて頂けるようになったのです。
実は、ここまで綴りました私のストーリーは、立場を代えて医療側から見ると永遠と続く『真実(まこと)の告知』作業の一例なのです。すなわち『真実(まこと)の告知』とは、一度切りの点ではないのです。もし私の受けた告知が、今の主治医のそれでなく一度切りの点であったなら、私はとっくに『朽ち果てて』いたことでしょう。つまり告知とは長く継続され、点が線となり、その終着にある、ALS発症者が病気に対する理解をみて、生き甲斐を求める姿勢を見てこそ完成されたと言えると思います。これぞ『真実(まこと)の告知』です。
私が告知を受ける期間にあたりましては、担当看護師さんから常に心理支援を頂いたことと、ヘルパーさん、保健師さん、薬剤師さん、時には関連メーカーさん、つまりあらゆる関係者さんの応援があったことも、同時に申し上げたく思います。本当に感謝致しお礼の言葉もありません。そして今私が、告知を受けている方達の支えになるべくピアサポートとして担う、その役目に自覚を持ちたく思います。
また加えて新しく、さらなる「生き甲斐」としての、好きな音楽の企画も立ち上げました。『生き様を示す』事をテーマと致しました、『美浜カーニバルボーイズwithレモン』と言うロックバンドのライブ活動です。2005年6月には、某市文化会館、病院の野外、都内ライブハウスと3本のライブをし、お蔭さまで好評を頂きました。私はピアサポーターとしてその『生き様を示す』事により、「人間、姿はどんなになろうとも、人生はエンジョイ出来る!」と言う事を、ALS患者の方のみならず多くの方達にお知らせ出来れば幸せです。ありがとうございました。
舩後 靖彦
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